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憂いの瞳-8 ジェイドがその場を去ってからしばらくの間、眼を瞑って肌で風を感じることで 緊張をほぐしていたの耳にかすかな物音が届いた。下の甲板の方から聞こえ るのは、何処か弱弱しさの漂う足音。 眼を開けて軽く身を乗り出して下を見ると、確かに下段の甲板に人影がある。そ れが誰か、にはすぐに解かった。 「!」 は立ち上がると梯子に向かって歩き出し、そして僅かに音を立てて梯子を降 りると板張りの甲板の柵の傍に立っている白い法服の後姿に歩み寄り、呼び掛け る。 「イオン様」 「!…!」 濃緑の左右にまとめられた髪が揺れ、髪と同じ色の瞳がを振り返って微笑ん だ。その顔には安堵の色が浮かんでいる。恐らく、交渉は良い結果が得られたの だろう。微笑み返したがイオンの隣に並び、眼下に広がる森林を見渡しなが ら穏やかに問いかけた。解かり切った返答を待ち望んで。 「―ルークは、何と返事を?」 「協力してくれると、国王に取り次いでくれると言ってくれました」 聞くと、捕まった当初はふてくされ、機嫌を損ねてしまっていたルークだったが 、ティアが説得しジェイドも頭を下げたという事で渋々了承した、らしい。 「良かったですね」 「これで国境を越えた後は、幾分安全な旅が出来ると思います」 まだ国境を超えるための旅券の問題などは残っているが、キムラスカではおそら く行方知れずとなったルークの捜索が行われている。どうにかしてキムラスカ側 にルークの身柄がマルクトにある事を知らせることが出来れば、何とかなる筈だ 。 「イオン様の事は、責任を持ってお守りいたします。…ま、私が何もしなくても 、アニスが守ってくれるでしょうけどね」 そう言って苦笑いを浮べながら背伸びをしたに、イオンはふと笑みを潜めて 呟いた。目線は景色に注いだままで。 「…―あなたは…僕を、イオンと呼んでくれるのですね」 ハッとが軽く眼を見張り、イオンを見る。 「…当たり前です。イオン様、私は―」 の視線を受け止めたイオンが、でも、と言葉を遮った。彼がそんな姿勢を見 せる事は珍しい。 「…でも、あなたは…僕が本当は何者なのか、知っているではありませんか。― しかも、そのせいで教団を―」 「イオン様」 一瞬、の声が低くなる。押し黙ったイオンに、しかしは優しく微笑みか けた。 「そんな風に言わないで下さい。確かに、あなたの事は…教団の犯した禁忌も含 めてあの時、知ってしまった。それが原因で教団を去る事になったのも事実。け れど、真実を視てしまった事、後悔はしてませんよ」 しかし、真実を知った代償として求められたのは、命。だからあの時は、あの場 所を去る事しか出来なかった。今より若い自分に出来た、精一杯の抵抗だった。 そして、いずれ全うせねばならない自分の運命を悟った。 「…」 橙色の双眸でイオンの不安げな表情を見透かすように見つめ、は優しい口調 で続ける。 「あなたが何をお考えになっているか存じませんが…少なくとも私は、あなたは 、導師イオン以外の何者でもないと思っています。今、導師イオンを信じている 皆も、今のあなたを信じているんです。」 「…そう…でしょうか」 手摺にそっと指を沿わせながら憂いの表情で呟いたイオンを見ていると、思わず 溜息が漏れた。決して高慢にならず、ただひたすらに純粋に人々の心の平安を祈 っている。そんなイオンの人柄が、人々を惹きつけているのだ。自分を卑下し過 ぎるのが、たまにキズだが。 「―――イオン様、あなたに唯一足りない所があるとすれば…」 その言葉に、イオンは呆れたような笑みを浮べるを見上げた。 「それは…自信、ではないでしょうか」 「自信…?」 「自覚は十分に足りていると思います。後は力や体力などではありません。あな たは、もっと自分に自信を持つべきです。あなたには一番難しい事かも知れませ ん、ですが… …アニスやアリエッタにも、伝えていないのでしょう?」 「…はい」 「なら…なおさらです―」 「…」 の言おうとしている事が、イオンには解かる。 一度決めた以上、誰かになる事を決めてしまった以上は、途中でそれをやめる事 など出来はしない。投げ出すことは許されないのだ。例えその"始まり"が、自分 の意思ではなかった事だとしても。 ならば、後に残った道は一つしかない。自らその道を望むなら、あとはその決意 のみ。 思案の末、イオンは自ら答えを導き出した。その顔に、やっと微笑みが灯る。 「…そうですね、僕がしっかりしなければ、皆を不安にさせてしまいますよね」 手摺に触れていた掌が、頼もしく拳を作った。 その様を見て、つられて微笑んだが語りかける。 「あなた一人で背負い込む必要もありません。導師守護役や多くの民達があなた についています。…皆で、しっかりすればいいんですよ」 今更だがは、目の前の少年が、作られた存在だとはにわかに信じ難いと思っ た。こんなにも人のためを思い、必死に考え、悩んでいる。そんな彼を作られた" レプリカ"などと呼ぶ権利を、世界中の誰が持っているというのだろう。 「…ありがとうございます、、本当に―ありがとう」 「いえいえ、私は何も―…!?」 ピク、とが肩を震わせると同時に、吹き付けていた風が止んだ。タルタロス はもちろん止まってはいない。なのに、 吹き付ける風が止むのは明らかに不自然だ。辺りに充満した異様な空気に、イオ ンも反応する。 「…?風が―」 「―来たか」 進行方向にある山並みを睨みつける様に見つめるが、低く呟いた。 「?」 呼びかけに返事は返らない。首を傾げての目線を辿って同じく山並みに眼を やった瞬間、イオンは驚愕した。 山並みから浮かび上がった、山幾つ分にもなる大きな波状の黒い影。否、それは 大きな一つの影ではなかった。よく眼を凝らしてみると、それは小さな影の集ま りである事が解かる。鳥の形をかたどった影の集団が、まだここからは距離があ るものの猛スピードでこちらに向かってきていた。 「あれは…!」 イオンが声を上げるのと重なるように艦内から警報機のブザーが鳴り始める。ブ リッジもどうやらあのおぞましい集団に気付いたらしい。 「グリフィンのようですね…にしても、すごい数―」 「あの鳥は、単独行動を主とする種類では…!?」 うろたえるイオンに対し、は黒い集団を見つめながら冷静に答えた。 「恐らく、誰かが操っているのでしょう…」 そこで一人の少女の顔がの脳裏を掠めたが、それを口にすることは無い。恐 らくイオンを動揺させてしまうだけだ。 「まさか、親書を……?」 「……」 少なく見積もっても数百匹はいるグリフィンの群れを、親書を奪うためだけに差 し向けるだろうか。何より、先ほどから森の奥からも多くの魔物の気配がする。 「(グリフィンは、囮…?)」 これ程大掛かりな作戦を仕掛けてくるという事は、目的は親書と導師イオンの両 方、という可能性もある。だが相手の目的がどうであれ、囮の可能性があっても グリフィンの群れにこのまま艦を襲わせる訳にはいかないのは確かだ。 戦闘配備に切り替わったタルタロスの迎撃システムが起動し、主砲が動き出した のが甲板から確認できる。しかし、果たしてあの数のグリフィンに迎撃が追いつ くだろうか。 そうしている間にもグリフィンの群れはタルタロスに近づきつつある。思案に暮 れている暇はもはや残されていなかった。 「―――イオン様、お下がりください。」 が静かに呼び掛けた。 眼前に迫る黒い大群。それを真っ直ぐに見つめる橙色の瞳には少しも焦燥の色な ど映ってはいない。 「え…は、はい…!」 イオンが一歩退いたのを横目で確認するとは掌を外側に向け、両腕を左右に 真っ直ぐ伸ばすと短く何かを呟く。直後、ふわりと巻き起こった風が吹き抜けた 瞬間、伸ばした両腕の延長線上の空間に譜陣が浮かび上がった。 「これはっ、詠唱破棄…!?」 イオンが驚嘆する。 一つや二つではない。甲板を縁取るように現れた幾つもの巨大な譜陣が赤い、第 五音素を宿した光を放ち、輝き始めた。 広げていた両腕を下ろし、が顔だけでイオンを振り返り、微笑んだ。 「ここは危険ですので先に艦内に戻っていて下さい。私も、すぐ行きます」 「あ…はい…!」 その瞬間、黒い影達に狙いを定めたタルタロスの主砲が火を吹いた。 憂いの瞳-8-end |